凶刃が肩を掠めた。
反射的に庇った腹は灼熱して、赤く濡れそぼっている。
油断大敵。舌打ちをして前を見据える。
暗闇の中、周囲は木々に覆われて、人影なのか草なのかさっぱり検討がつかない。
警戒心を極限まで高め、辺りを見回す。
草のそよぐ音すらない。重苦しい沈黙だけが充満している。
「どうした……もんかな……」
搾り出した声は血に掠れていて、先ほど腹に一つ、肩に一つ、矢で射られた傷が叫んだ。
視界がちらついて、ともすればぼやけて意識が裏返る。
夜は嫌いだとごちた。ただの現実逃避だ。
元来夜目は効かない。だからこそ、最愛の恋人にも集団行動を勧められた。
しかし、度重なる勝利に油断が生まれていたのだろう。
敵数も少ないから、一人で出てくると結局、使い古しの剣だけを持ってきてしまった。
挙句、闇討ち。誰かが隊列から逸れるのを待っていたかのように、計画的に、俊敏に敵は現れた。
反撃のできないよう、木の影から矢を射て、じわじわと体力を奪っていく。
手元の剣は、あと数回振れば折れるだろう。まったくもって情けない。
自重して、改めて腹の痛みに現実を思い出す。
そう、このままいれば、死ぬ。それは確実だった。
なにより出血が多い。気が遠のいて、過去に思いを馳せてしまうほど。
これを走馬灯と呼ぶなら、相当危ないところまで来ているに違いない。
「やばいなぁ……俺は、こんなとこで……死ぬわけには……」
がさり。背後で草を掻き分ける音がする。
反射的に剣を握り締めたが、やけに穏やかな恋人の声が、自分を呼ぶのを訊いて一瞬、その手を緩めた。
彼女はいま無防備に違いない。剣の一つでも持っているだろうが、それでも確実に。
俺が追いつめられ、死に掛けているはずがないと思い込んでいるから。
だから必ず、彼女は射られてしまう。
考え出すと傷の痛みは薄らいで、ただただ殺意だけが湧き上がった。
「ぜったい、殺させやしねぇ」
目の前に選択肢は二つ。
一つは慌てて彼女の元へ駆け寄り、逃走し、仲間と合流する。
もう一つは捨て身で敵を仕留め、なによりも彼女を優先する。
生きている限り彼女だけは、必ず守ると決めたから。
愛する恋人の声を心に刻んで、はこぼれた剣を力強く、握り締めた。
生きるか、死ぬか
――挑戦しますか?
「YES!!」
2011.09.30
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空気が肌を刺す。晒された指先が萎縮した。
焼けるような熱も凍えるような冷たさも、全て痛みに集約すると聞いたことがある。
もし、冷たさも熱さもが痛みであるならば、この高まりはなんとしようか。
「あぁ 繰る繰る問いも 分からぬが 常、なら、頭をかっ開いて覗き見る他あるまいて」
髪を掻いて、ツメを立てる。伸びきったツメの痛みにちり、と焼けた。
「そのためには眼球だって取り出さねばなるまいな、……ふふ」
口の端から零れる哄笑が闇に消し去られる。
暫しの沈黙。
脳を駆けるは先刻の無邪気な声。
「君は死にたいの?」
目前に引きあげられた手が勢いよく机を叩く。
破壊音と共に、机上のコップが割れた。
冷気に冷やされたお茶が広がり、破片が手を刺す。
ぷつりと痛みに顔を顰めれば、案の定赤い水泡が掌いっぱいに広がっている。
握り締め、いじらしいその水泡を潰す。ぶちゃりと嫌な音がした。
「……いいひとだと思ってたのになぁ」
ことの発端はすこしの油断だった。
あまりにも袖が邪魔だったから、ついうっかり肘まで捲くってしまっただけ。
ただそれが致命的だっただけで、普通の人の、普通の動作だ。
腕に傷さえなければ。
その傷を目にしたあのひとは眉を顰めて、努めて明るく言った。
「やめなよー、ねぇ、君は死にたいの?」
今まで築いてきた信頼だとか尊敬だとか、そういったものが一遍に瓦解した。
取って代わって失望と怒りと、憎しみが湧きあがって心を焼いた。
辛うじて残った理性が「失礼します」と搾り出して、全部投げ出して帰ってきた。
最低だと思う。自明のことだがどうしようもない。
そもそも、どうにかできるものなら、ここまで思いつめたりしないのだ。
「最悪だ、死にたいなんてあろうはずもない。生きるよ、だから出すんだ」
痛みを、熱さを、冷たさを全部ひっくるめてそとに出す。
そのための動作だと、理性は定義づけた。
理性は至高だから、俺はそれに従った。
さて、靴下が湿り気を帯びて、床に滴ったお茶を見下ろす。
赤が混じって、紅茶のようになったお茶はみるからに不味そうだった。
「ああ、きもちわるい」
今更ながらに熱を出して訴えだす傷。赤い血。
脈動する傷口のまわりの血管をリアルに感じる。
今にも目に見えそうな、鼓動。
「でも……きもちいい」
息をついて目を閉じる。
瞼の裏であのひとが口を開いた。
「君は死にたいの?」
「NO、だ」
2011.11.25
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湯船から上がる。
軽い立ちくらみをやりすごして、冷気に満ちたリビングルームへ足を向ける。
床を歩く間にどれだけの体温が奪われたんだろうか。
体から立ち上る湯気がまるで自らが違う世界にいるように思わせる。
本気を出した少年漫画の主人公のようだ。なんて考えて、馬鹿みたいだと打ち消して。
真っ暗なリビングルームのスイッチを点ける。
眩しい蛍光が、誰もいない部屋を照らした。
あまり物のない、整頓された部屋。
自分が綺麗好きなのもあるが、一重に買うものがない……すなわち、無趣味なのもあった。
自分はこの生活に満足しているし、これ以上を望むことは無いけれど、ただ、平坦だと、そう思うだけで。
寒い冬の日。暖房のスイッチを入れる。ごうと唸って今にも壊れそうな古ぼけたクーラーは、安い家賃の産物だ。
そこそこに温まった部屋の中を、薄いパジャマで歩き回る。
はたと、冷蔵庫の中にあるアイスクリームを思い出した。
面白いから買ってみろといわれた、伸びるアイスクリーム。
言われるがままにコンビニエンスストアでレジカウンターに持っていき、なけなしの金を払った。
バニラ味、物足りない現状には最適の甘ったるさじゃなかろうか。
裸足で歩く。指先が徐々に冷たくなってくるが、意に介さない。
扉を開く、人工的な冷気が額を冷やした。
すっと手を入れて、掴んで取り出す。
なるべく早く動作をこなして、冷気の元を塞いだ。
ごおおと、暖房が唸っている。
そういえば、冷蔵庫の冷気は、三秒開けるだけで全て抜けてしまうらしい。
あまりにゲーム染みたルール。
はたして今は何秒だったか、と思案しやめる。
この部屋には時計がないのだ。
アイスカップを取り出し、付属していたスプーンを持つ。
どこからでも破けます。と書いてある袋は、どこからも破けなかった。
口の端で噛む、引っ張る、破ける。
平たい簡素な木の棒が突き出して、お世辞にもスプーンとは言いがたいものを口にくわえる。
アイスの方は案外簡単に開いた。
さくり、入れてみると、確かに少しの弾力がある。
スプーンを口元にやると、尾を引いた。
口の中では甘ったるいバニラ味と、僅かな弾力。
この感触をどこかで知っている気がした。
復刻版のアイスだろうか。なんて考えて。
やっぱりそこに思い当たる節はないから、考えるのをやめる。
考えるのをやめるのは案外難しい。
その割、人間は簡単に考えるのをやめる。
便利なものだと、思った。
そういえば、鼻に付く匂いがする。
すっぱい、くさい、漏れてくるような匂い。
アイスクリームの甘ったるさと正反対の、いかにもまずそうな。
ふと振り向くと、冷蔵庫が開いている。
閉め忘れてしまったらしい。
これでは三秒ルールどころではない。
何故だか損をした気分で、扉を閉じた。
がちり、と何かが挟まる。
さっきもそれで閉じなかったのだろう。
あと冷蔵庫にはなにが入っていたっけ?
列挙する。氷、ドライアイス、保冷剤、冷凍肉。
感触からして、冷凍肉だと思う。
では、この匂いは?
考えて、ああ、下らない事だと嘆息した。
ただ単に、これは雑食の臭い肉が冷凍庫の力を持ってしても、腐敗をとめられなかっただけだ。
そして思い出す。
さっきの覚えのある歯ごたえ、あれは、そう、彼女の舌の感触だった。
2012.01.01
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黒ずんだスニーカーを履く。
随分前から履き続けてきた靴も、底が磨り減って雨の日はすぐに水が染み込んでくる。
いくらいまいちお洒落に興味が無いからといって、これは困る。
道すがら買い換えることを考えながら、玄関の扉を開けた。
戸が軋んで、築二十年の重みを思い知る。
家も買い替え時だろうかと考えて、それは自分には関係のないことだと思った。
施錠を確認して愛しい我が家を離れた。
見慣れた住宅街を歩く。
天気は快晴、素晴らしい散歩日和だ。
陽気なこんな日は、鼻歌でも歌ってのんびり過ごしたい。
ただ今日は、ちょっとした野暮用があるから、そういうわけにはいかない。
勿体無さを感じながら、田舎染みた町を見渡した。
こんなところに住んでいる人は、都会を羨ましいといい、都会に住んでいる人は、こんなところに帰りたいと願う。
彼らが反対なら、どれほど幸せなことだろうか。
自らの住む場所に満足し、それ以外を嫌う。
ああなんと幸せだろう。
仮に世界がそうなったとして、想像をめぐらせれば、心が躍るような気がした。
さて目の前に踏切が見えてくる。
踏切を走る電車に乗って、市役所に向かうのだ。
その前に、駅で男性と待ち合わせをしていることを思い出して、慌てて自分に言い聞かせた。
忘れないように、忘れないように。
案外私は忘れ物が多い。
昔から物を忘れては他人に叱咤されていたものだ。
それはさておき、ホームに立って待ちぼうけしている男性が見えてくる。
彼に手を振って、隣に立つ。
十分もしないうちに電車が到着して、おおきな隙間を跨いで乗車する。
電車特有の訛ったアナウンスが流れ、それを何気なしにきいていた。
あと数駅で市役所前だ。
彼とこれからの予定を話し合いながら時間を潰す。
市役所は意外と静かで、よそよそしかった。
以前に二人で記入した紙切れを受付へ。
数年前、もう一人の男性と同じ行為をしたことを懐古しながら、にこりと微笑んだ。
一年前、険悪な雰囲気でまた紙を提出していたことを記憶の果てに追いやって。
「ねぇ、私、あなたと二人で幸せになりたいわ」
あの日と同じ言葉を口にして。
今日は新しい靴を履く日。
2012.01.03
靴=結婚のモチーフ
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毒の盃を交わそう。
これは今生最後の晩餐。
色とりどりの料理に、芳ばしい香りの肉や魚。
真っ赤なワインに綿のようなパンを並べて最後の祈りを捧げた。
私の神様
私は今宵あなたの元へ帰ります
私の神様
私は今宵あなたの元より離れます
自害は報われぬ。
自害は救われぬ。
説かれ続けた真偽も分からない教え。
自らの死を管理することはそれほどに罪なのかしら。
それよりも、欲望の残るまま主の元へ帰ることこそ罪だと思うのです。
使命の残るまま主の元へ帰ることこそ罪だと思うのです。
欲望の尽きた今こそ、今こそ。
閑散とした心の今こそ、今こそ。
私は今宵あなたの元へ帰ります。
目の前に鎮座する私の神様。
その手元のワインはあなたの血液。
その足元のパンはあなたの肉。
朽ち果てて色も霞んだそれは、あなたの姿であるのでしょうか。
目前にグラスを掲げて一つ祈る。
どうか主が、みすぼらしく衰えていないことを。
どうか主が、私達とおなじく人であることを。
どちらにせよ私は裏切られる。
それならばもう主を離れるより他はない。
だから私は自害する。
毒の盃を交わそう。
これは今生最後の晩餐。
いかにも美味な料理の中に、いかにも美味な毒を一つ。
全てを丁寧に貪って、柔らかく暖かい布団の中に潜り込む。
そうすれば、私は主へ帰り、そして主を離れることが出来る。
この
くだらない
だれもをたすけ
てくれない
しゅ よ
うらみます。
2012.01.10
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