それは太陽とともに起き、うさぎを食べ、花に水をやり、時に木を間伐する狼でした。
彼は毎朝森の中を駆け巡って、太陽のあたらない場所を探しては、爪で間伐予定のしるしをつけます。
うさぎを食べるのはそのついでです。
日がてっぺんに上るころには、見つけた秘密の花畑の、そのそばにある蜂の巣をもぎとって、はちのこの蜂蜜漬けを食べます。
花を眺めて食べるランチは格別です。
日が暮れると、彼は寝床に帰って眠り、明日間伐する木のことを夢に見ます。
赤いずきんを見つけたのは、秘密の花畑の隅っこでした。
真新しいずきんはくたびれて、随分使い込まれたようです。
森のそばにある家の、人間の持ち物のにおいがしました。
そして銃の、火薬のにおいを思い出して、身震い。
彼は秘密の花畑が人間に見つかったのを知りました。
その日、狼は夜も眠れず、ずきんをひたすら嗅いでいました。敵のにおいを知るためでした。
それから月が一度生まれ変わって、曇った空の日でした。
朝に間伐を済ませた狼は、その木材を鳥に届けていました。
赤いずきんが見えたのは、ほんの一瞬でした。
狼は飛び上がって、木の陰に身を隠します。小さなメスの人間でした。
赤いずきんをかぶり、バスケットを手に歩いています。
狼の心は震えました。怖いからではありませんでした。
狼は人間に駆け寄って、声をかけました。
お嬢さん、秘密の花畑にきたことがあるだろう。人間は無視してぐんぐん進んでいきます。
森の奥にある、偏屈ばあさんの小屋に向かっているようでした。
あの小屋には猟師がよく訪れ、彼の友人を殺していきます。
ひとりで暮らす彼には関係ないことですが、ひとり見つかると皆殺しにされる家庭もあるようです。
ずきんを拾ったんだがね、君のではないかな。人間はずんずん進んでいきます。
秘密の花畑も彼の家も遠ざかり、随分暗いところまで来てしまいました。
小屋が近いのを報せるように、鉄のにおいが漂ってきます。
彼は落とし物を渡すのを諦め、翻って家に帰りました。
さて、おばあさんの小屋に辿り着いた赤ずきんは、バスケットのワインとパンを机の上に置いて、汗に蒸れたずきんを脱ぎました。
ふわふわの毛のついた、狼の毛皮で暖かいずきんです。
おばあちゃん、言いつけ通り、狼は無視してきたわよ。また声をかけられたのかい。
うん、優しそうな雰囲気だったけど、私が花畑に行ったの知ってたわ。
ああ、それじゃ、また猟師に頼んでおかないとね、なにせ、いつ襲われるかわからないから。
殺しちゃうの。仕方ないだろ、あんな野蛮な生き物、殺しちゃうのが一番さ。
まあ、確かに前みたいに、運良く猟師さんがきてくれるとも限らないし、仕方ないわね。
おばあさんと赤ずきんは、お母さんの用意したケーキを二人で食べ、赤ずきんがよくしてくれる猟師とどうしたら結ばれるかを話しました。
それから、木に傷がつけられることも、木が切り倒されることもなくなり、花畑を訪れるものもいなくなりました。
2014.12.04
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体がほどけていく感覚を知っていた。
皮膚と皮膚とをつなぐ一本の糸が切れ、境界はぱっくりと口を開き、桃色の肉が顔を覗かせる。
桃色の肉の隙間から、露わになった神経と骨が、外気の冷たさにむせび泣き、やがて絶叫するばかりになる。
絶叫にあてられた精神は鈍り、鈍った精神は色のみを認識する、認識する色は赤、赤は人間が初めてする色。
自分の腕がほどけているのを、言葉にできるようになるまでに数分かかる。
まだ繋がった糸の、追悼のように滴った涙を拭って、手を後ろにまわす。
視界から、手が消える、もうどうなっているかなんてわからない。
自分の中にある全てのものが消える感覚を知っている。
正確に言うならば、消えたあと、それが帰ってきたときに訪れる感覚を知っている。
太陽系が爆発したフラッシュが視界を奪って、写真が現像に失敗したように何枚も何枚も真っ白で出てくる。
つぎはぎだらけの友人の声のような、残骸を拾うことはあっても、それが言葉の形を為すことはない。
無形の声は記憶の上を上滑りしていく。
しかし、真っ暗なよるに、街灯のともる唐突さで意識が明瞭になる。
新たな惑星ができ、写真が現像され、有形の声が目覚めたばかりの自我を刺激する。そうすると、もう何があったかわからない。
食べられる感覚を知っていた。
皮膚を突き破り、肉の繊維を引きちぎり、骨に歯が当たり、神経が断末魔をあげ、そうして口の中にすくい切れなかった欠片が取り残されていく。
手荷物を根こそぎ盗まれたような喪失感と、体中を冷涼感が駆け巡って、幾分か風通りのよくなった錯覚に陥る。
象牙色の肌に赤黒い斑点が浮かび上がって、歯の隙間から咀嚼された桃色が見える。
白いのは脂肪、管のようになっているのは血管、あるいは神経。
ときおり動く喉仏が、肉片の行方を教える。食道を、胃を、腸を、肛門を通り抜けて、それは乾いた搾り滓になってここに返ってくる。
それが何だったかは、もうわからない。
もしもあの悲劇的な幸運がなければ、一生くすぶりつづける時限爆弾に怯え、目を逸らし続けなければならなかった。
時限爆弾はいつも設定時間を裏切る。一秒前で止まることもあれば、それ以前で爆発することも、花火になることもある。
でも、爆弾を止める方法はおろか、設定時間も、爆弾のかたちも、においさえ知るものはいない。
唯一の手がかりは、この感覚たちがある日、なくなるか、あるいは永遠に続くか、その瞬間にある。
2014.12.09
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彼女は魔女と呼ばれていた。悉く彼女の恋人は死に、それなのに彼女の周りを取り囲む異性は数知れず。
いつも信徒たちは、彼女が自分を恋人にする順番を待っていた。
魔女狩りの連中は、彼女が犯人だと騒ぎ立てたが、有力な情報はおろか、証拠さえ見つからない有り様だった。
恋人たちの遺産を奪うでもなく、ただ淡々と、彼女の恋人だけが死んでいく。
十二人目の恋人が路地裏で息絶えたとき、僕は表通り車に乗っていた。
排気ガスが窓の隙間から流れこんで、車内を覆い尽くしていく過程。
タバコの先に火をつけて、深く息を吸い込む。
駅前の表通りはひとが絶えず行き交い、あちらこちらから四つの、一つの目が見張っていた。
しかし、建物ひとつ隔てたむこうで何があったかを誰も知らない。
彼女が恋人に何をしたのか、あるいは恋人が彼女に何をしたのか。
短くなったタバコを社内の灰皿に押し付けたあと、僕は車の鍵を抜いた。
今日日、差込式のキーをコートのポケットにしまって、流れ込む冷たい空気でうがいする。
携帯電話の電波は三本、充電もバッチリだ。
ショーウインドウのガラスで身だしなみを確認したあと、携帯のアラームを設定する。
これはあと六時間後の真夜中に、けたたましく叫びだして、表通りの住人たちの気を引くだろう。
そして全てが明らかになり、裏通りの現実は表通りの現実と混ざり合い、一瞬。同化する。
彼女の背中が見えた。空は細く狭まって、小さな檻を形成する。
パイプと、室外機と電線とは確かに二つの世界を区切り、繋げていた。
彼女は水たまりのそばに座っていた。鉛色の地面にうつった底抜けに明るい青。
膝を覆い、地面に花開いた黒いスカートが、花弁の端を空に浸す。
それは十二人目だった。彼女の膝に、吹き抜けていく風に揺れる黒髪が見えた。
眠っているようにも思えるほど静かに、彼はさわがなかった。喚かなかった。命乞いはしたかもしれないが、室外機が黙殺した。
ぽとん、と水たまりに波紋が広がる。パイプにひびが入っていた。
彼女は微動だにせず、波紋にスカートは揺れる。
耳掻きの途中で寝てしまった夫を愛でる妻、とも取れただろうに、路地裏のまとわりつくぬるい空気とカビ臭さは全てを台無しにしていた。
彼女は呼吸ひとつ漏らさない十二人目の頬をなで、こちらを振り向かない。
一歩、近づくと欠けたコンクリートの破片が音を立てた。
「あなたが、魔女だね」
彼女はゆっくりとこちらを見上げ、水をやりすぎて今にも枯れてしまいそうな、百合のような笑みを浮かべた。
そして十三人目は六時間以内に死ぬ。
2015.01.19
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星空通りを北から南に歩いて、看板で隠れた二つ目の路地を曲がるといい。交番のお兄さんはそう言った。
なるほど確かに、人が体を横にすれば漸く通れそうな「隙間」があった。
枠の錆びた看板がへの字になって墜落していた。
「八百屋カトウ」がいつ潰れたのか、そもそも加藤だか果糖だか、考えかけてやめた。
その看板がついていたであろう建物は、シャッターに蜘蛛の巣がはるほどに放置されている。
星空通りを通り過ぎるだれもが八百屋カトウを無視して、むしろ避けるように歩調を早めていた。
泥で薄汚れた看板に触れないように、スカートをたくしあげて慎重に跨ぐ。
そのまま滑り込んだ私の背中とお腹が、カビだらけの壁と壁にぴったりとくっついた。
こめかみを時折掠りながら、一歩ずつ前に、横に歩を進める。
十何メートルか先にある光の柱は存外遠くて、その間に膝小僧が五回擦れ、頭に蜘蛛の巣が三回引っかかった。
光の柱の先に見えた、黒い棒に手を伸ばし、ようやく隙間から飛び出したとき、目の前にあったのは住宅地を網羅する排水溝だった。
勢いのまま黒い棒、もとい鉄柵を支えるコンクリートにしがみつく。
がしゃん、錆びた鉄柵たちが悲鳴をあげた。
埃やら泥やらが体から脱落し、水にさらわれていく。
コートのポケットに入れた写真の存在を確認し、辺りを見回した。
四方、住宅地。しかも庭のある、家の裏側だ。
よく考えなくても、あの「隙間」を「路地」と見立てるのはおかしい。
その隙間を通ってきた私は、相当頭がイカレてたのかもしれなかった。
「いらっしゃいませ」
どう戻ろうか途方に暮れたとき、呟くような声が落ちてきた。
頭上の小さな窓から、あどけない表情の青年が箸を片手に見下ろしていた。
私が何かを言う前に彼は引っ込んで、代わりにぱたぱたと足音が近づいてきた。
庭から通じる窓の錠が開けられ、彼が手招きをする。スカートを押さえながら柵を乗り越えると、足元には幾重もの足跡がついていた。
それは目の前の一軒家に続いて、消えていく。
わたしも消えるのだ、すべきことを終えれば。
体中の軽く叩いて汚れを払ううちに、青年の背後から十七、八くらいの少年が姿を現した。
くたびれた白いカッターシャツは壮年のサラリーマンのようでもあるが、その体つきは華奢でいまだ未発達であることを伺わせる。
彼はにっこりと微笑んで、私を家の奥へと促した。
「いらっしゃい、お姉さん。そこからきたのは、あなたで五人目ですよ」
眼鏡のレンズの奥で潜められた目は、笑みを浮かべながらもこちらを品定めしている。
廊下のきしむ音にも萎縮して、私は言われるままにリビングのテーブルに腰掛けた。
「それでは、本題にうつりましょうか」
そう切り出されるまで、自分が何のためにここにいるのか忘れてしまうほど、平凡な一軒家の中で異質な静けさが漂っていた。
空気も、水も、全てを無理やりに黙らせたような、耳鳴りのする沈黙。
たとえそれは誰かが話していても、決して途切れることはない類のものだった。
「お姉さんは、何をなくして、何を得ますか?」
私は一度逡巡したふりをして、埃でねばついた唾液を飲み込んだ。
今から私は、命の売買をする。
2015.01.26
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その頃、全て未来は保証されていた。
就職難民も受験戦争も存在しなかった。誰かを蹴落すこともなく、誰に蹴落とされることもない。
努力が報われることが約束された世界。年々増え続ける自殺者を減らすために、国は深刻なストレスから国民を守る手をうった。
生まれたときに厳正な審査が行われ、通う学校、就く職業、住む場所が決められる。
与えられた道なりに進んでゆけば、一定の収入と休日が得られた。
血のつながりではなく、住む場所が家族を決めた。
これも生まれたときに審査されるので、仲違いするような性格は同居しない。
「わたしの若い頃はね」
"祖母"は何度もそうやって話をした。受験に落ちること、就職も見つからないこと、利益のために基準を超えた労働時間を課せられた人が少なくなかったこと。
まるで金につかわれる奴隷だ。
「雅彦はお医者さんになるんだったね」
「うん」
祖母は二人分のジュースを机に置く。
氷できんきんに冷やされたオレンジジュースをあおると、食道が冷たさに驚いてちぢみあがった。
参考書を見下ろしながら、祖母に「ありがとう、おいしい」と声をかける。彼女は満足そうに笑った。
今の時代、最低限の知識のほかは、就職のための勉学に費やされる。今日の課題は、教科書の五ページから五十ページまで。
半分まできたが、そろそろ昼の三時をこえる。ページを捲った先で、異常のある肝臓の写真が目に入り、慌てて閉じた。
「そういえば、おばあちゃん、俺が十歳のときの、覚えてる?」
「さぁ、なんやったかね」
「あ、覚えてないならいいけど」
首をひねる"祖母"に微笑んで、汗の滲んだ手のひらをズボンで拭く。
冷たい物を飲んだのに、体温はじわじわ上昇してきているようで、なのに体の芯はひどく寒かった。
勉強を、やらないといけなかった。
そろりと紙を捲って、極力目を向けないように文字だけに集中する。
脂肪のつきすぎた肝臓、肝硬変をおこした肝臓、腫瘍のできた肝臓、それからしなびた肝臓。なぜこうなったか。
事務的なことばの羅列を、ひたすら目で追っていると、突然なにかに胃が鷲掴みにされた。
流れたばかりの食道を駆け上がるオレンジジュース。咄嗟に気管の弁を閉じて、溢れ出しかけた胃液とジュースを押し戻した。
ヒリヒリ痛む喉の奥に唾液を何度も流し込んで、酸味と甘味の混ざった刺激を和らげる。
「だいじょうぶかい、雅彦」
「……うん、大丈夫。でもちょっと気分悪いから休憩するね」
胸元になにか詰まったような息苦しさを抑えて、椅子からベッドに移動する。
祖母の心配そうな声が聞こえたが、あまりうまく返事する余裕はなかった。
「雅彦はよく勉強中に体調崩すなぁ」
「うん」
「医者の不養生って知っとるかいね」
「……うん」
「手際よく片付けて、はよ寝れるようしぃな」
祖母はそのまま部屋を出て行った。確かに最近、体調が悪かった。
それは遅くまでノルマが達成できず、寝不足気味な所為であり、ノルマが達成できない理由も分かり切っていた。
とにかく、「内臓」が苦手だった。
生まれてはじめて、小学校四年生授業でニワトリの心臓を解剖したときに感じた「この肉の塊が体のなかにある」という感覚。
はっきり認識したとき、体はそのおぞましさに拒否反応を起こして、俺は卒倒した。
以来、写真でもイラストでも、内臓を見ると気が遠くなる。
無理やり叩き込んだ知識は、時折フラッシュバックして内臓の存在を思い出させ、さいなんだ。
しかしこの世は厳正に、未来を診断した。医者になる未来は約束されていたし、そのために努力しなくてはいけなかった。
興味を持つはずなのに、恐れを抱いてしまったのは、他ならぬ自分が間違えたことだった。
いまだに続く間違いを他言するなんてもってのほか。
ひたすら詰め込みながら、脳が慣れるのを待つしかなかった。
2015.05.23
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