彼が闇に食われ、大事なものを粉々に壊してしまいそうだったときのことを覚えている。
あのときはそれしか方法が思いつかず、ただ無我夢中で彼の心を覗いたものだ。
唯一、私がこの目に感謝した瞬間、誰かを助けるために目を使った瞬間だった。
彼はあの子をペンで突き刺して笑っていた。
鋭利だが、決して深くはならない拷問のような痛みにあの子は泣きさけぶ。
狭くて閉じられた空間に、彼の哄笑と彼女の叫びがこだました。
「つかさ!」
制止の声も聞き入れず、彼は次の獲物を求めて、ふらりと立ち上がった。
青空のような心が闇に覆われ、雷雲が重く浮かんでいる。
「っ、きさ、来ちゃ駄目!」
あの子が心配してくれた言葉を笑みで返して、私はゆっくりと彼に歩み寄った。
のし掛かってくる殺意が肌を刺し、足取りを重くする。
彼は私に向けて、真っ赤になった手を伸ばした。
それは、確かに私に向けられた凶刃でもあったが、救いを求めるこどものようでもあった。
「つかさ、大丈夫」
振り下ろされたペンの切っ先が肌を引っかいていった。
その肉を裂く感触に、彼の心が悲鳴を上げる。
あの子を傷つけてしまったときも、こんなふうに悲痛な叫びをあげていた。
これ以上負担がかかれば、壊れてしまいそうなほどに脆くひび割れた心。
「近江ちゃんは大丈夫だよ、みんなで帰ろう」
心の深く深くまで目を凝らす。彼が何を見て何を感じてきたのかが、ひしひしと伝わってくる気がした。
ひどい無力感と、それから憎悪、そしてそれを抑え込もうとした今までの暖かい記憶。
あの男は僅かな葛藤につけこんで、こんな風に彼を悪鬼に変えてしまったのだ。
歯を食いしばって、前を見る。今は怒りより悲しみより、彼を安心させてあげたかった。
「つかさ、つかさ、きこえる?」
呼びかけに答えはない。心に立ちこめた暗雲は未だ晴れる様子はなかった。
もっとなにか、付け入る隙があるならそれはこちらにだって同じはずだ。
僅かな光を探して、私は心の隅から隅まで見渡す。
「きさっ」
私の手を彼女が掴んで、強く引き寄せた。
後ろによろめいた私の眼前にペンの先が突き出されて、ようやく私は自らの現状を知る。
小さな傷でいっぱいになった腕と身体は、ぽたりぽたりと小さな赤い粒を垂らしていた。
「もうやめろよつかさ! きさまでこんなに傷つけてっ……」
「おうみちゃん、つかさは泣いてるよ」
言葉につまり、ふっとゆるんだ彼女の手。そして再び突き出された彼の手。
大好きな二人がこれ以上涙を流さないように、私は身体で彼の手を受け止めた。
腕に深く刺さったペンと、彼の手を握りしめて離れないようにする。
抵抗して暴れようとした彼を、彼女がしがみついて抑え込んだ。
「おうみちゃん」
「こいつの泣き顔なんて見たくないからさ、きさ、お願い」
彼のこころが一つでも光が見つけらないなら、そのよどんだ水面に波紋を起こそう。
「こわくないよ、つかさ」
私は、決心して指先を瞼に寄せて、それから――。
2013/11/15
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彼は、闇の中の希望と呼ばれていた。彼のいた国は悉く勝利を勝ち取り、彼の家は栄華を極めていった。
とある吟遊詩人は彼のことを、天上から遣わされた神の子だとうたい、その評判は王をも凌駕するほどになった。
しかし、彼の評判が良くなるにつれて下がっていく一方の威厳に、王は不快さを隠し得なかった。
藍色の空が赤々と燃えている。
窓を割って噴き出す熱気が肌をやき、つんざくような悲鳴があちらこちらで起こった。
いち早く異変に気づいた母が彼の名前を呼ぶ。
たどり着いた彼の部屋は、盛る火の色に染められ、とても近づけそうになかった。
「ああ!」
跪いて嘆く彼女の背後から、一人の女中が駆けてくる。
「奥様、こちらです!」
くずおれたままの彼女の肩を抱き、女中は避難を促した。
心ここにあらずと言った様子の彼女は、名残惜しげに後ろを振り返り、よろよろと歩んでいく。
息子のことでいっぱいだった彼女には、女中が持っていたナイフなど眼中になかった。
そして彼女は、
妻の無残な姿を見つけて、夫はひどく激昂した。犯人など分かり切っている。
我が息子を亡き者にしようとしたがっていたのは、誰でもない、王だ。
怒りに震える拳を握りしめて、腰に携えた剣を抜き構える。
「お前がやったのか」
影から飛び出してきたのは、ひとりの若い執事だった。
「ああ旦那様、奥様をお救いできませんでした。たった今、女中を捉えたところです」
「裏切りか」
「はい、あちこちで。キツネの仕業でしょう」
「やはり、あやつ王と通じておったか!」
「お気持ちはお察しいたします、しかし今は御身を大切に……」
彼は執事の言葉に頷き、裏口につながる階段を駆け下りる。
裏切り者がいるなら、裏口も既に全て手がまわっているはずだ。
僅かな可能性があるのは、彼がこころから信頼を寄せるものだけが知っている隠し通路のみ。
息子も妻も暗殺された無力感、怒りを押し殺して、彼は棚の裏にある隠し扉をひらいた。
「旦那様!」
そのとき、執事が鋭く叫び多い被さった。
どうと地面に倒れ、矢で射られた執事のからだごしに向こうをみる。
忌々しいキツネのような顔をした男が、にやにやと笑みを浮かべていた。
「必ずここにくると思っていました」
「貴様――、よくも!」
剣の柄を握りしめてかけだした彼は、弓を携えたキツネに牙を剥く。
キツネは抵抗するそぶりさえ見せずに、ただ一度、手を鳴らした。
そして、彼は背に短剣が深く刺さったのを感じた。
「キツネ、終わったのか」
「ええ」
青年の問いかけににっこりと笑い、キツネは肩に弓矢を背負う。
槍を携えた青年は、家紋の刻まれた鎧を着て燃えさかる家を見上げた。
「母上も父上もお亡くなりになりました」
「――そうか」
「いきましょう」
くるりと踵を返して歩み始める主の背を、キツネはにんまりと笑ったまま追いかける。
誰も彼の行方を知ることはない。誰も彼の生死をしることはない。
まして、誰がこの火事を起こしたのかさえ。やがて彼の姿は、闇に溶けて消えていった。
2013/11/17
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通勤ラッシュも落ち着いて、人の流れが比較的穏やかになった頃合いに電車に乗る。
がたんごとんと電車の心地よい揺れに身を任せ、入り口の手すりにもたれ掛かった。
このあとは急いで歩いて、乗り換えにむかわなければならないはずだ。
毎日毎日おなじルートを惰性で行き来する身体には、窓の外の景色なんて、別段珍しいものだとは思えなくなっていた。
車内では俯いて携帯機器に夢中になる人間ばかりで、知り合い同士会話をする光景もみられない。
車掌のアナウンスが次の駅への到着を報せる。
目的地まであと二駅だ。携帯電話の待ち受けに表示された時間を確認して、乗降する人のために身体を避けた。
つんのめるような衝撃のあと、車両の扉が開いた。
急ぎ足に飛び出して行くものと、我先に入り込もうとするものが衝突する。
諦観しながらその光景を眺めていると、最後に同い年くらいの少女が乗り込んだ。
どこか見覚えのある地味めの女の子は、赤いマフラーを巻いて、ベージュのコートを羽織っている。
二つにくくられた黒髪はまだ垢抜けず、幼さを残していた。
頭の中で知人の頭を羅列してみると、高校の同じクラスにちょうど彼女とおなじ地味な女の子がいたようにおもえる。
大学に進学したものの、いわゆるデビューというものは逃したようだった。
「ねえ、お久しぶり!」
少し駆け寄って話しかけると、少女はあからさまにおびえたような表情をした。
このたぐいの人間は、大抵こんな顔をする。
まるでいじめてるようでいい気分ではないのだが、そういうものだと飲み込んでしまえばそれまでだ。
「大学どこいってるの?」
「え、えと、私、その……私学の、芸大に」
「へえ、芸大! すごいね、やっぱり絵かいたりするわけ?」
「えと、私は……そっちじゃなくって、文章とか、編集とか……」
「文学部?」
「あ、うん、まあ、そんなかんじ、です」
静まりかえっていた車内に二人だけの声が目立つ。
しきりに周囲を気にしている様子で、彼女は途切れ途切れに受け答えをした。
退屈ばかりの日常にもたらされた僅かな刺激は、少なからず興奮を覚えさせる。
これを機会に仲良くなれたらどんなに嬉しいだろう。
自分と似たような人間ばかりが周囲に集まるのだが、それだけではもの足りない。
おびえた目をした彼女が、打ち解けたらどんな話をするのか、興味が湧いた。
「小説とか、書いたり読んだりするの?」
「うん」
「先生に作家とかいるの?」
「あ、うん、いるよ。えと、例えば橋原昴とか……」
「え、わかんない。どんな本かいてるの?」
「んと、ね、枯れた湖とか、そのサスペンスもの、とか」
「あ、それって前ドラマになったやつだよね!」
「そうなの?」
「ジュニーズの木村ジュンが出てたやつ!」
「あ、へえ。そうなの……み、見逃しちゃったみたい」
「そっかー、また今度本いろいろ教えて?」
「あ、うん、あの……、でも」
「メールアドレスとか? ラインやってる?」
「ラインは、その、やってない。あ、えっと、でも……」
苦笑いをしていた彼女は、あちらこちらに視線をさまよわせたあと、首を傾げた。
「えっと、その、ごめんね、……誰だっけ?」
2013/11/21
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音がしていた、ずっと。
食器棚で揺れている皿のような、あるいは焦れてせっかちに机を叩く指先ような、あるいはシンクを鳴らす水滴ような、あるいはが不定期に秒針を刻む時計のような、音だった。
遮光カーテンの隙間から差し込むひと筋のあかりに、半分に区切られた真っ黒の、六畳半の部屋に、溶け込んで、ずっと、音がしていた。
枕を縦断し、ベッドを斜めに切り落とす白い帯が、灰色になる過程に、ひとつの手のひらを差し込む。
暗闇と灰色との境界線にある、陶器のような、あるいはシルクのような、あるいはタバコのような、五本の枝に指先を絡める。
肉がたわんで、触れたところからぬくもりが撹拌した。
唇の輪郭だけで、白磁に問いかけると、あの音が返る。
腰掛けたベッド、細い光束に隔たれた向こう側のきみは、目を開いて天井を眺めていた。
埃の繊維の一筋一筋、あるいは天井の素材の僅かな隙間さえも見えているのかもしれない。
落ち窪んだ目元は、無骨な手触りをしていることを知っている。
幾重もの隆起でつくりあげられた表面に、水を垂らしてみたら、砂を落としてみたら、そうして泥を眼窩に流しこんで、指先でゆっくりかき混ぜる感覚、を、想像して、震えた。
取り返しのつかない衝動と、結果への恐怖が、一度に噴出した。
依然、あの音は続いている。
食器棚で揺れている皿のような、あるいは焦れてせっかちに机を叩く指先ような、あるいはシンクを鳴らす水滴ような、あるいはが不定期に秒針を刻む時計のような、音と、それ以外の一切の沈黙と、それから、遠くから近づきつつある耳鳴り。
首もとでちぎれたままの、合皮の首輪、の端に引っかかった、たまのない鈴が揺れる、陰が、光束を横切る。
むき出された歯の奥に、小さな銀のかたまりをどうやって鈴に入れようか思案するうち、光がくちもとを照らした。
蛍光灯の、不躾な眩しさが、歯垢の陰を露わにする。
広がった光の溝をひとっ飛びに越えて、枕元に座り込む、と、口内の銀は見えなくなった。
足を差し入れ、手を差し入れ、肋骨の隙間と隙間をぬって、ひび割れて空洞の大きくなった骨盤の上に乗る。
水に融解する塩のような、体温の消失。
大腿骨に尾を横たえて、耳をすます。
それが微笑んでいる理由と微笑んでいない理由と嘆いている理由と嘆いていない理由とを知っていた。
音が鳴り止まない理由を知っていた。
うまれたばかりの頃、みた理科室の標本と、それらの欠落の全て。
それは唇を持たないことだ
2014/11/27
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筆に色をのせて、紙にそれを移していく過程は、自分の生きてきたすべての記憶と、すべてと関わってきた上で埋め込まれた認識とでできたフィルタに、現実を通すのににている。
少なくとも、前妻あすかは、一心不乱に腕を動かす自分とは切り離された感覚で、いつもそう思い知った。
経年劣化した角膜、つまりフィルタで屈折した現実は、記憶と認識と本能と理性で埋め尽くされた脳の隙間をひしゃげながら駆けめぐる。
そして明らかに細すぎる神経から、再び現実へと排出されるために、細切れにされる。
かつて、友人にこの認識を言葉に砕いて話した際、彼は「かき氷?」と首を傾げた。
筆を動かす自分と、考える自分と、それからもうひとつ後ろに自分の目を置く。
今まさに排出されつつあり、フィルタを通りつつある現実。
四苦八苦して変換した認識をひとことで片付けた友人が、机に伏して呑気に眠っている。
彼が耳につけたイヤホンからは爆発的な音漏れが聞こえ、時折寝心地を求めて身じろぎをするが、あすかにはその騒音の中に安眠があるとは到底思えなかった。
光源の散布と陰のコントラストに気をつけながら、シアンを重ねる。
今際の蛍光灯がまたたいて、カメラのフラッシュのように、それの輪郭が網膜に刻まれた。
「あ」
新しく舞い降りた現実に気を取られて、筆が踊った。
光を侵食した墨色が掠れて、キャンバスに傷を残す。
今まで体内を巡っていたはずの現実は、胃で消化されて見るも無残な液体になり果てていた。
シアンを持て余し思案して、あすかはパレットの墨色に、筆、どころか、手をなすりつける。
絵の具は皮膚に水分を吸われる。そして、彩度は墨色に塗りつぶされた。
掠れた隙間から僅かに見えるシアンの欠片と光源の斑点は虫の息、止めとばかりに潤った筆で蛍光灯を塗りつぶすと、あとは墨まみれになった友人が、惰眠をむさぼっていた。
「イカ墨」
眠気に後ろ髪を引かれたような声がした。シアン色の友人が目を覚ましていた。
「お腹すいてきちゃった。どっか行こ」
イヤホンから流れていた騒音はいつの間にかなくなって、すっかり黙り込んで耳から抜け出した。
くるくるとコードを巻き取ったあと、友人は鞄を漁り財布を取り出す。
「イカ墨パスタ食べたい」
「前、マズいって言ってただろ」
それから、まっすぐに人差し指の先端は、イカ墨まみれの自分の図をさししめしていた。
「イカ捌いたみたい」
「それ理由?」
「イカの断末魔ってどんなんだろ、何の種類か忘れたけど、寿命一年なんだってさ」
墨を吐いて、あたりにそれを撒き散らす過程は、生きてきたすべての種の遺伝子と、すべてと関わってきた上で埋め込まれた本能とでできたフィルタに、現実を通すのににている。
少なくとも、一心不乱に魔手から逃れんとする自分とは切り離された感覚で、いつもそう思い知った。
フィルタで屈折した現実は、遺伝子と本能と種の存続のための使命感で埋め尽くされた脳の隙間をひしゃげながら駆けめぐる。
そして明らかに細すぎる神経から、再び現実へと排出されるために、細切れにされる。
蛍光灯が死んだ。
2014.12.02
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