101.風

 視界がホワイトアウトするほど、燦々と照りつける太陽。
フェンスのすぐ向こうでは、車が排気ガスを吐き出しているが、今頃私のとめたミニは灼熱地獄になっているだろう。
サングラスをかけ直して、手元の雑誌に目を落とす。
すでに一周読み終わってしまったが、もてあました時間を使い潰すには、もう手段がほとんどなかった。
サンダルを履いた素足に場違いな冷たさが降りかかる。
咄嗟に椅子の下に足を引っ込めて、足元で水浸しになっている男をにらみつけた。
「何すんの」
「呼んでも返事しないから」
 足下に広がる水色の四角いプールから、顔をのぞかせて彼は言う。
再び手で水をかけようとするのを制止して、私は立ち上がりパラソルからぬけだした。
むきだしの二の腕を焼く太陽の光に、わずかな痛みを感じる。
濡れて黒ずんだプールサイドは、もとの色を取り戻し始めていた。
「一緒にはいらん?」
「やだよ、日焼け止め塗ったのに」
 口をとがらせて、彼は後ろに視線をやった。
彼の友人が二人、ビーチボールを片手に遊びに興じている。
奇数人数で一人がはみ出してしまうことは想像に易い。それとも、なにかけしかけられたのか。
もとより「足」となるつもりで了承した誘いだった。
男同士の楽しみ方はもう私に理解できないし、何より今、怒鳴りつけるような陽光がうるさくてたまらない。
首を振って立ち上がると、彼はぱっと視線を逸らす。気を害したかもしれない。
「二人でならいいよ」
 歩み寄って水泳帽からはみだした前髪を押し込むと、彼は頬を染めた。
「じゃ、いってらっしゃい」
 私はパラソルの下に戻り、ふたたび雑誌を手に取った。しかし彼はそこから動こうとしなかった。
「さびしいの?」
「いや、そうじゃなくって、脚が」
「脚?」
 耳まで真っ赤にした彼は、思い切ったように私の手首を掴んで引き寄せる。
バランスを崩して、危うくプールに飛び込みかけた私を、彼はぎゅうと抱きしめた。
「脚を組んだとき……下着が見えてる」
 彼は言い逃げよろしく、水中にそそくさと姿を消した。
 そのすぐ傍で、小さな子どもがはしゃいで水に飛び込んでいく。
監視員の注意の声がスピーカーごしに聞こたが、それすらも遠くに聞こえて、私は呆然と彼を目で追った。
彼の友人は帰ってきた彼に意味ありげな目配せをして背をたたく。
暑いからと短めのスカートを選んだ自分を叩いてやりたい。
いや、このあとの事をすこし期待してもいたが、彼よりさきに彼の友人に気づかれていたことが悔やまれる。
 なんだ、もう、恥ずかしい。
裾を引っ張って、私はパラソルの下に潜り込んだ。
彼は下心を抱くでもなく、知らせにきてくれた。
抱きしめられたせいで湿った服が肌に張り付く。
濡れれば少しは暑さもましになると思っていたが、そうでもないことを知った。
かんかんと光る太陽に、早く引っ込めとヤジをおくる。
乾いてしまうと、抱きしめられた感触が消えそうだ。
私は背を向けてフェンスの方を向く。身体があつい。
必死で熱を冷まそうとする私をあざ笑うように、一陣の風がスカートを揺らした。

2013/08/11
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102.トランス

 がたん、ごとんと心地よい振動が足を伝い背中を伝い、頭を揺らす。
座席の暖かさと独特のリズムに、夢とうつつの境をいったりきたりしていた。
時折、目の沢山ある人影や、口のない人間の映像がちらつく。
私は今電車に乗って床を見つめている。たくさんの足があった。
スニーカーを履いた足、サンダルを履いた足、下駄、革靴、それから長靴。
床の中央に黒い布が落ちていた。
わずかにふくらんでいるそれは、その下になにかがあることを想像させた。
好奇心のまま手を伸ばす。
触れるか触れないかのところでわき上がった恐怖は、これをめくってはいけないと警告した。
周囲は沈黙している。乗客はいつの間にか足だけになっていた。
布の端をつまむ、唾を飲み込んで、ゆるやかに息を吐く。
私はこれをめくらなければいけないような気がした。
音もなくはがされた布を取り落とす。
それがひどくしめっていたためでもあるが、何よりその下にあったものを見たからだった。
「ねこ」
 黒い猫がひしゃげていた。
目玉はどこかに落としたのか、空洞が固まった血で埋め尽くされている。
反対方向に曲がった足はまるで放り投げられたぬいぐるみのようで、それだけみれば落とし物のようだ。
しかし歪んだ表情は確かに苦悶を表していて、これが生き物だったのだと思い知らされる。
 私はこれを見たことがあった。
幼い頃の通学路で見つけた黒い布。興味本位でめくった下に、これがあった。
塗りつぶされたように明細さを失っていた記憶が、ようやくよみがえってきた。
「わたし、それが見たら駄目なものだっておもって逃げたの。わたしみたらだめなものをみた……」
 ぼろぼろとあふれる涙を抑えることもできず、私は誰にでもなく告白して嗚咽した。
車内でアナウンスが流れる。
「ゆっくりと起きてください。しっかり、あなたは目を覚まします」
 何度も何度も、アナウンスは繰り返された。
そして夢から覚めるように、意識が浮上していく。

 催眠にかかるための準備が終わった状態を、トランスという。
マンガやアニメでみられる五円玉を目の前で揺らして相手を眠くさせる過程は、そのトランスへの導きである。
トランスになった人間は、心地よい眠気とともに半覚醒状態に陥る。
簡単に言えば、起きながら寝ている状態だ。
普段の活動的な意識は大人しくなり、無意識が表層に出てくる。
それによって、本人が自覚していない苦悩や恐怖を表に出し、解消することができる、ことがある。
トランス状態になりやすいのは、一定のリズムを延々ときいているとき、一点に集中して視点をあわせているときなどが現れる。
つまり電車のリズム、そこで本を読み、文字に集中することで眠くなるのは、いわばトランスから睡眠へと移行しているためである。

2013/09/27
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103.声

 背後のビール缶の山が雪崩をおこした。
わずかに飲み残された液体が飛び散り、白いカーペットを汚していく。
少年はやせ細った身体をさらに縮こまらせて、扉の向こうを伺った。
息づかいだけが聞こえ、耳鳴りを起こすほどの無音の部屋。
それなのに、あと数時間後には破壊音と怒鳴り声で埋め尽くされるのを知っている。
そして、あてのない怒りは彼に向けられる。
数ヶ月前まで念入りに手入れをされていた黒髪はもはや艶をうしなっており、なめらかだった肌も、細かな傷で見る影もなかった。
どうして自分が。幾度となく浮かんだ疑問に答えるものはいない。

 秒針の音にまどろみ、幻のなかで水面をたゆたっていたとき、何かに急に足を引きずられた。
意識が急激に覚醒して、周囲を見渡す。黄ばんだ天井とひび割れた木製の扉。
わずかに思い出しかけた、暖かい感情がかき消され、さっ、と血の気が引いていく。
 玄関の鍵がしまる音がした。
「いいこにしてたか? 坊」
 酒のつよいにおいが流れ込んでくる。
無精ひげで顎を覆い、髪もぼさぼさな痩せぎすの男が、部屋に入ってきた。
窓のそとから差し込む夕日がまぶしい。
目を細め、身をよじった少年に、男は肉薄する。
近づけられた口からアルコールと油の混ざった悪臭が吐き出され、思わず息を止めた。
「はい、は?」
 前髪をつかみあげられ、頬に平手が飛ぶ。
骨の節が頬骨とあたり、突き刺さるような痛みが走った。
なおも口を開こうとしない少年にしたうちして、男は手に提げたビニール袋から数本の缶ビールを取り出した。
小気味よい音とともに封が開けられ、男はぐいと一気にそれを飲み干す。
大きく息をはいて、からになった缶をゴミの山に放り投げた。
「なんでそんな頑ななのかわかりゃしねえ、簡単じゃねえか」
 少年が黙ったまま部屋の隅で後ずさって縮こまると、唐突に男が壁を殴った。
鈍い音とともに安物の壁に亀裂が入る。
何度も破壊され、修正された壁のもろさにもはや男は気にした風もない。
「おら、なんでやらねえのか説明してみろ!」
 少年は頭を抱えて震えるだけだった。
耳をふさぎ、かたくめをとじて、次に自分がぶたれるところがどこなのかを考えている。
腹は痛い、背中も痛い。どこでも痛い。首は苦しい。
男はビール缶の山をけ飛ばして辺りに散らかした。
「……なあなあ、どうしてだ? 教えてくれよぉ」
 あわただしく少年の傍に駆け寄って、猫なで声で少年の腕をつかむ。
びくりと肩がけいれんして、さらに少年は小さくなった。
「簡単なことじゃねえかよぉ、なんでやってくれねえんだよぉ」
 半ば涙声になりながら、男は少年の耳に哀願を続ける。
「前テレビにでてたみたいに、歌ってくれればいいじゃねえかよぉ。それだけなんだよぉ……」
 少年は決して口を開こうとせず、ただその言葉を聞くまいと唇をかみしめていた。

2013/10/08
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104.灰

 瞬きのたび粘膜にはりつく小さな粒に、眼球を取り外して洗いたくなる衝動にかられる。
しかし、そうしてみたところで宙に舞っている粒子は、懲りずにまたあらゆる箇所にひっつき始めるだろう。
舌打ちしかけて僅かに開いた唇の合間から、また。
「っなんなんですかね、これ」
 口元を手で覆いながら、前方を歩く騎士に問いかけた。
「この辺、砂漠とか火山とかありましたっけ」
 弓を携えた生真面目そうな騎士は、あからさまに不機嫌に眉の間にしわを作っている。
その間にも粒子がつまっていそうだと空想して、こみ上げた笑いに俯いた。
「この辺りは森に囲まれ、中には多くの小川がある。火山はないし、砂漠はずっと南だ」
「ですよね」
 自分の脳内の地図が、騎士のものと同じことを確かめて、相づちを打つ。
じゃりじゃりと口の中に入り込んでくるそれを唾液とともに吐き出して、騎士はまた前へと進んでいった。
もう少しで村があり、そこの住民から情報を得るのが今回の仕事だ。
こんな無愛想な騎士と元盗賊に任せてもいいのだろうかと不安になったが、主はにっこりと笑って「人手が足りない」とのたまった。
視界の先の方に屋根の頭が見える。確かに村だ。
だが、何かが引っかかった。足早に進む騎士をなんとか追いかけながら、その理由を考える。
ざわ、と一度緩やかな風が通り過ぎていったとき、ふとそれに気づいた。
「待ってください」
「なんだ」
 振り向いた騎士に睨みつけられる。あと少しで目的地なのに、邪魔をしたからだ。
この騎士は、とにかく仕事が中断するのを嫌った。
しかし、俺は口を覆うことも忘れて、身を屈めてささやきかける。
それはひとえに、緊急事態だからだった。
「静かすぎます」
 その言葉に素早く膝をつき、騎士は村の方を伺った。
人がいるはずなのに、一切の声がきこえない。周囲には、木々の発する自然の音しかないのだ。
「変ですって、これ。……その、人、いるんすか?」
「確かめる」
 騎士は木々に紛れて村へと近づいていく。俺は身近にあった木を上って、俯瞰で村の様子を見た。
家の全体が見えるまでになっても、その視界にやはり人は入ってこなかった。
動物の姿もない、命が忽然と消えてしまったような村が、そこにあった。
「賊におそわれた、にしてもきれいすぎるな」
「ぱっと消えちまったみたいっすね」
 騎士と顔を見合わせて、無人の村へ足を踏み入れる。
相変わらず周りを舞う粒子が視界の先を霞めていた。耳を澄ませようにも、粒子が入り込んでままならない。
「家の中からもなんも聞こえません」
「だろうな、何もいないからな」
 すでに扉を開いていた騎士が、苦々しくはき捨てた。
ざらついた唾を飲み込んで、俺は一番立派な家の扉に手をかける。視線を向けると騎士は頷いて、扉を開けるように促した。
積もった粒子を擦りながら、木製の扉が開け放たれる。

 中には誰もいなかった。ただ、灰のようなものだけがこんもりと一角に積もっていた。
「俺、考えちゃ駄目なこと考えてます」
 灰を見下ろして、呟く。騎士は舌打ちをしただけで、何も言わなかった。
「これ、舞ってるのと、一緒っすよね」
 外を見ると、相変わらず灰らしきものが舞い続けている。想像は確信へとかわりつつあった。
「これ……人間……っすか」
 床に積もっていた灰は、人の形をしていた。まるで倒れたまま、灰になって崩れてしまったように。
 騎士は無言のまま、全ての家々の扉を開いていく。
だが、どこも同じようにひとの形をした灰が積もっているばかりで、生き物はなに一つなかった。
「報告に行くぞ」
 小走りに出て行く騎士の後を追う。正直な話、こんなところは一秒だって長居はしたくない。
今は呼吸さえはばかられる。周囲に飛んでいるものを吸うことを思えば、少し苦しいくらい、我慢できる。
衣服を口元まであげて、ぐ、と喉の奥を舌で塞いだ。

2013/11/10
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105.水

 口の端からこぼれた小さな泡が上っていく。
帯状に差し込む光が、透明な球体をきらきらと輝かせながら、暗い水底にふりそそいでいた。
柔らかな、全てを包み込むような光はうすらさむくて、手のひらで視界を遮った。
ゆらゆらたゆたって、安寧に甘んじていればいい、ここはそう思い知らせてくれる場所だった。
 不意に体温が手首を掴んだ。
水面から延ばされた腕が、勢いよく身体を引き上げる。
水の抵抗もむなしく、ぼんやりと霞んでいた光が、今度は肌をちくちくと刺した。
「なにしてんだよ」
「あすかくん」
 ぐちゃぐちゃになった前髪をかきあげて、彼は小さく笑った。
「随分と長い間、あがってこなかったから」
「うん、そうみたい」
 プールサイドにおかれたタイマーは、既に役目を終えて沈黙していた。
実際、どれくらい沈んでいたのだろう。少しだけ息が苦しかった。
「みなこ」
 みなこの身体から広がっていく水たまりが、あすかの足をぬらしていく。
彼は少しとがめるように、もう一度みなこの名前を呼んだ。
「私ね、その名前嫌い」
 髪から滴ったしずくが落ちる。波紋が水面を揺らした。
「水子ってかくのよ」
 空気が水のように重くなっていく。
そしてなにもかも窒息してしまえばいいと思った。あすかも想い人も全部。
「水子(みなこ)」
「なあに明日空(あすか)くん」
 なんでもないとあすかはそっぽ向いた。
みなこという名前は流れた姉のことを偲んでつけられたらしい。
表向きは水のように流麗なこどもに、と教えられていたが、中学校に上がったとき母親がそう話しているのをきいた。
悲しみも怒りも感じなくて、そのとき確かに流れた姉に嫉妬した。
「かな」とつけられるはずだった姉。
姉がいなければ、みなこはみなこでなかったのだと思うと、ひどく空しかった。
「明日が空っぽ」
「え」
 あすかの唐突な言葉に、みなこは瞬きをする。
噛みしめるようなつぶやきの後、彼はプールに倒れ込んだ。
水しぶきがあがって、みなこの顔にかかる。
水からあがって、しばらくしたみなこの肌には冷たく感じた。
それから、十秒二十秒――四十秒ほどがたったとき、あすかが顔を出した。
「ぶ、あ、はー、苦、しい」
 息も絶え絶えにあすかは笑みを浮かべる。
「なにしてるの」
「ちょっとは心配しろ」
 みなこの差し出した手をとって、あすかはプールサイドにあがった。
ぼたぼた滴り落ちていく水滴が足の裏に触れる。
少し暖かいそれは、体温なのか光のあたたかさなのか。
ほんのすこしだけぬるくて冷たい滴は、あすかに似ていた。

2013/11/12
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