ずぶり、と腹にめり込んだ錆びた刃。
胃の中に割り入る異物に、膝が崩れ落ちる。
土に突き立てたままのチェーンソーのエンジンがとまり、血だまりを広げていった。
霞む視界の中で、ケタケタと姦しく騒ぐ道化が愉快そうに跳ね回る。
灼熱する傷から赤がこぼれ落ち、焼き切れそうな脳髄が叫ぶ。
殺してしまえ、殺してしまえ、痛い、痛い痛い痛い!
絶叫する神経を断ち切って、腹に刺さったままの異物を抜き取る。
迸る鮮血を手で抑え、ジャケットで縛り上げる。
液体の染みる感触と、湧き上がる嘔吐感を押し殺して、ゆっくり息をついた。
はく、と開閉する唇からとめどなく流れる力の代償。
ぼくはまだ動ける、だからまだ、
血にまみれた口元を拭い、真っ白になった手を握り締めて、立ち上がる。
嘲笑を浮かべて、幾重にも連なった道化が目の前に立ちふさがった。
血に落ちた機械刃を持ち上げ、重い本体から延びたスイッチを引っ張る。
ジャコッ、とチェーンが引かれ、重低音と共に刃が唸り出した。
暴力的なまでのノイズを発するチェーンソーが振動する。この鼓動はぼくのもの。
再び活気づいた体に、破壊欲に塗れていく頭が指令を出す。
殺せ、殺せ、これ以上なく無惨に、塵一つ残らないほどに!
地を蹴ると同時に影が蠢き、咆哮した。
狂喜と恐怖の入り混じった道化の悲鳴とエンジン音のハーモニー。
廻る刃に巻き込まれ、肉塊と果てゆく道化の笑顔が醜く歪んだ。
背後から襲う首切りステッキを、チェーンソーを軸にして飛び上がり回避する。
地面に突き刺さり、土埃をあげるそれを引き抜き様に周囲へ振るった。
途中で止まった振動、手元に数匹の道化が群がった。刃沿いに腕が伸ばされ、鋭い爪が頬を掠める。
飛び退さり、チェーンソーを前へと投擲すると、道化が押され刃に密着した。
動力部に付属する紐を引き寄せ、エンジンを鳴らす。
再び喧しく叫びだした回転刃は無数もの肉を巻き込んで、全てを切り裂いた。
舞う黒色の血に赤が混じる。
背を駆け上がった悪寒に、思わず膝をついた。
ぽた、ぽたと黒に赤が滲んでは消える。
身体から急速に失われた血液は、四肢まで行き届かなくなっていた。
まだ動く、まだ! まだ、勝ってない!
魂が喚き、肉体を叱咤する。
徐々に近づく嘲笑に顔を上げれば、新たな道化が勝利の微笑みを浮かべていた。
鈍く光る首切りステッキが切り下ろされる寸前、ぼくは鮮やかな赤をみた。
2012.11.28
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雨が窓ガラスをノックし、天井からはポタポタとひっきりなしに滴がしたたり落ちている。
黄ばんだ壁には亀裂が走り、至る所に綿埃が積もっていた。
無人であるハズの旧校舎の中で、不意にブツン、とスピーカーのノイズが沈黙を裂いた。
「It's fine today!」
けたたましい道化の声が、音割れしながら校内に響き渡る。
一斉に点灯された蛍光灯が、闇の落ちた周囲を照らし出した。
椅子の上に座り込んでいた人影は、突然の明るさに眉をしかめて目を開く。
細い四肢を伸ばし、あくび混じりに立ち上がる彼は、穴の中に落とされた戦士だ。
道化の生み出す穴は、対象を本質の中に閉じこめ、ゆっくりとなぶり殺しにする。
それを知っているにも関わらず、彼が脱出口を探すこともせず、本質の檻に甘んじていた理由はひとつ。
そもそも脱出口など存在しない。ここは果てのない奈落。
ただ、それはこの本質を表面化させた道化に負けたときのはなし。
元凶さえ取り除いてしまえば、瞬く間に旧校舎は消え、見慣れた新校舎が戻ってくる。
男は縄を模したネクタイを抜き取り、その先にナイフを括り付けた。
いまだに繋がったままのスピーカーから突き刺すように漏れ出す殺意が、ピリピリと肌を刺す。
「始めようか? 終わらせようか?」
愉快そうな問いかけとともに、くる、と縄が回される。その途端、空気の波が止んだように、全てが息を忘れた。
雨は空中に浮かび、唸っていた風は押し黙る。
静止した中をただ一人、男だけが息をしていた。
投げられたナイフはスピーカーに突き刺さり、延びた縄を引っ張る。
壁ごと抉りとられたスピーカーの中から、道化の腕が転がり落ちた。
「懐古……ね、ミイラでも出てきそうだ」
男は腕を拾い上げて、ナイフで両断する。砂と化した腕は、再び動き出した時の中に紛れていった。
鉄錆の匂いが充満する放送室に、それはいた。
醜悪な、埃と血と錆にまみれた、ミイラじみた顔が、歪んだ笑みを浮かべる。
狂ったように嗤い続ける道化と対峙した男は、ゆっくりと背後から真っ赤な林檎を取り出した。
道化の虚の目が、林檎を捉える。
「An apple or a coin?」
ゆらゆら揺れて、姦しく騒いでいた道化が痙攣し、静止した。
醜悪の表情は微動だにせず、ただ椅子の上で、不自然に傾いでいる。
道化は世界の中で、ただひとり、息を止めていた。
ゆっくりと歩み寄り、男は道化に近づいていく。
「人語をはなすから、随分と聡い道化だろうと思っていたよ……でも、」
差し出したままの林檎を、驚愕に大きく開かれた口に押し込んだ。
ゆっくりと道化の腹に落ちていく林檎を見送って、優しくその口を塞いだ。
「人選ミスだよ。僕はそういう奴の為にいる」
時を取り戻した道化が、男の頭上に刃を振り上げる。
そのときには既に、道化は腹に巣くった毒によって、体液を吐き出していた。
地面に倒れ、砂になる道化の跡を踏みつけて、男は元に戻り行く世界を見上げていた。
真新しい校舎、活気づいた朝の空気。グラウンドを照らす太陽の光が、暖かく降り注いでいた。
「It's fine today」
2012.11.29
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2071年11月30日
(前略)
背を押すだけでそれは死ぬ。
高いところでも、車通りの多い場所でも、望むとも望むまいとも関係なしに、それは"落ちて"いく。
重力にひしゃげる腕、飛び出した眼球が、救いを求めるように僕をみた。
ただ気持ちの悪いのは、それが全て、死ぬ直前まで悪意に満ちた、醜い嘲笑を浮かべていたこと。
今日も僕は、道化に憑かれた人間を殺しました。
⇔
人の本質というものは概して殻を被って擬態している。
長所だったり才能だったり、少しずつ形を変えて表層に現れ出る本質の欠片は、少しずつ、確かに殻を破り続けていた。
それに気づいた人間が、個性を大事にとうたって、殻を破る手伝いをしたのが全てのはじまり。
人は、本質ばかり見て、殻の意味を考えていなかった。
殻こそ、人の持つ全てであるというのに。
殻、つまり、人間を食い破った本質は、莫大なエネルギーを持て余し、周囲を破壊し始めた。
道化のように、解放の笑みを浮かべて、ただ赴くままにカタルシスを味わっていた。
(中略)
だが道化の時代は終わりを告げるだろう。
彼らの存在が、唯一の希望であり絶望でもある。
あまりに危険すぎる賭け、しかし残された時間はあまりに少ない。
藁にも縋るような気持ちで、道化を飼い慣らした人間を人は讃える。
⇔
2071年12月1日
(前略)
それが人間でないなら、僕は何を殺してるんだろう。
ばけもの? 人類の敵?
本質というものは、確かに僕らの中にあるのに、それは僕らの一部でしかないのに、人はそれを認めない。
暴走した本質を、もはや殺すべき敵のように殲滅しようとする。
一変して個を抑えつける単純さも、最終的に抑えつけた個を頼る滑稽さも、まるで狂った道化のようだ。
道化と呼ばれるべきは、解放の喜びに叫ぶ本質なのか、逸脱したものを恐れながら、それに頼らざるをえない人間なのか。
だから僕は、今日も道化に憑かれた人間を殺しました。
2012.11.30
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貰えるものは貰う。使えるものは使う。
確かにそれが彼の信条ではあったものの、それにしたって限度があるだろう。
そもそも――、
「それさ、女物だぜ」
「……? でも暖かいからよくない?」
桃色のウサギの耳に、綿のような手触りの布地、丸い大きなボタンと、胸元にあしらわれたハートマーク。
冗談みたいなパジャマを着込んで、幸せそうにしてる男を見てると、溜め息がこぼれた。
さっきからこの調子で、一向に折れようとする気配がない。
そりゃあサイズはそれなりにLLだとかLLLだとかであれば、それなりに長身の男でも入りそうだし、何よりこの極寒の時期にふわふわぬくぬくもこもこは正直魅力的すぎる。
でも、目に悪い。誰が好き好んでふわふわぬくぬくもこもこなウサ耳パジャマを着た男を見たいだろうか。勿論反語だ。
どうせなら可憐な女の子が着ているのを見たい。やましい意味合いを除いても。
「それ、脱げよ」
「いやだ、この変態」
「勘違いしてんな、この電波。着替えろっつってんの」
「やだ、寒い」
唇を尖らせて拗ねる仕草をしても可愛くない。
大きく溜息をついた俺に、相方は一つの包みを差し出した。
表面に書かれた字は、後輩のものだ。
憮然としてそれを受け取り、包装を破る。
中から飛び出してきたのは、一つのパジャマだった。
水色のネコの耳に、綿のような手触りの布地、丸い大きなボタンと、胸元にあしらわれた星マーク。
冗談みたいなパジャマを前にして、絶句する。
「これ、は」
「後輩たってのプレゼントだよ? ……着ないの?」
にやにやと笑う相方はこの上なく腹立たしい顔をしていた。
2012.11.23
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純白の絹に埋もれる。
すり抜けていくような手触りと、真新しい匂いにここがもう実家でないことを知った。
使い込まれた羽毛布団も、毛羽立った毛布も、少し染みのある枕も今はもう遙か彼方。
そわそわと落ち着かない心臓に、ゆっくり酸素を送り込む。
慣れるように枕に顔を埋めて早数分、収まるどころか酷くなる動悸に、スプリングのきいたベッドを拳で叩いた。
「帰りたい!」
誰もいない無人の部屋に、虚しい喚き声が消えていく。
意気込んで実家を飛び出したものの、待っていたのは途方もないホームシックだった。
はじめて数分、もうそろそろ帰っていいんじゃなかろうか、と弱った心が音を上げる。
間違ってもそんなことをしようものなら、社交界の笑い話にされるに違いない。
歯を食いしばって孤独感に耐える。こんなときばかりぐぅぐぅ鳴く腹が忌々しかった。
真新しい冷蔵庫を開き、中からチーズケーキを取り出す。
三時のおやつにしては、紅茶もなにもない質素なもの。でも紅茶よりも何よりも、家族がいないのが寂しかった。
漏れた溜め息。折角の大好物も、味気なく舌の上を転がる。
俯いて、その味に熱中する振りをして、寂しさを紛らわせるのに必死だった。
だから、気づかなかった。
ベッドの上のシーツが盛り上がり、浮き上がったことに。
人を象ったシーツは覚束ない足取りで前へ進む。
気づかないままケーキを食べる僕の足の先に立った。
ちらりと見えたシーツを、一瞬見逃して、そしてかたまる。
自分以外には誰もいない部屋に誰がシーツを動かせるだろう。
悲鳴をあげることも適わず、息を呑んで、ただ後退った。
一歩下がるごとに、シーツは一歩歩み出す。
一歩、一歩。つかず離れずの距離は、背に当たった壁によってついに縮まりはじめた。
「あ……、あわ……、」
引きつった喉から間抜けた声が零れ、そのたびにシーツは近づいてくる。
腕が触れ、シーツの手は肩を、首をなぞっていった。
頬にたどり着いたシーツは、その滑らかな布地で肌を撫で回す。
ぞわりと逆立った産毛に歯を食いしばり、固く目を閉じた。
更に近くにシーツの気配を感じる。
なんだってこんなポルターガイストじみた体験を、一人暮らし初日に経験しなくちゃいけないんだ。
真っ白になり、限界を迎えた思考が断絶しはじめる、暗転の訪れる直前、耳元で何かが囁いた気がした。
「ひとりじゃないよ」
2012.11.27
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