66.雨の日

さあ――っ、
世界中にホワイトノイズがかかっている。
ミストのような細かい雨が、風に煽られて頬をなでた。
しっとりと湿気を与えるそれは、別段不快でもなく、寧ろ爽やかですらある。
首筋に張り付いた髪を払って、清涼な空気を深く吸い込んだ。
雲で真っ白な空は眩しい。
遠く臨める山々も、首もとに厚いファーを巻きつけて、肌寒そうにしていた。
靄が遥か先を曖昧にぼかし、電線の黒だけが辛うじて、伺える。
視線を落とせば、水鏡に映った自らが、無表情にこちらを見つめている。
頬を伝い、滴り落ちた雫がいくばくかの波紋を起こし、虚像は掻き消えた。
嘆息し、踵を返す。
黒いコートが揺れ、白い霧のヴェールを裂いた。
振り向き様にふとかち合ったまなこに、足を止める。
空色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見据えていた。
柔らかな光を称えた双眸は、ふわりと弧を描いて笑いかける。
「こんなところにいたのか、傘もささないで。風邪ひくぞ」
目を背け、その横を半ば逃げるように通り過ぎたとき、足元でぱしゃりと水が跳ねた。
ふ、と吐かれる息の音。
「まだ怒ってるのか」
こどもをあやすように、頭を撫でられた。
湿気った髪を掻き回す無骨な手のひらは暖かい。
「帰ろう、みんなまってる」

渋々頷いて、歩み出す。
眼前の灰色の空に、七色の橋が鮮やかに架かっていた。

2012.11.17
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67.曇り空

ヒヒン、と愛馬が鳴く。
その鼻の先を視線で追うと、先ほどまで晴れ渡っていた空が、分厚い雲を引き連れてゆっくりと動いていた。
「こりゃ一雨くるかな……」
ため息混じりに林の奥を見やる。りん浴に向かっていた女性陣に、どうやって知らせたものか。
仲間のひとりであるアメノは天気の動きには敏いはずだが、今回ばかりは気づいていないらしい。
連日の強硬な行軍で疲れ果て、しばしの休息を決めた途端にこれなのだから、神様も大層いじわるなものだ。
「おーい、聞こえるか」
呼びかけても返事はない。
木々が邪魔をして、音を遮っていた。
髪をなぶる風が凶暴さを孕みはじめる。
通り雨だろうが、風邪をひきやしないかと気が気でない。
体調を心配するくらい当たり前だ、好きな人なんだから。
「もう少し奥にいったら聞こえるか……?」
躊躇いがちに足を踏み入れる。
愛馬が制止するように鳴いたが、大丈夫大丈夫と諭すとすぐ大人しくなった。
このまま進みながら声をかけていたら、いつか聞こえるだろう。
暗雲は近く、あまり時間もない。
足を速めたとき、仲間のひとりの叫び声が聞こえた。
「大丈夫!? アメノ……!」
気づけば走り出していた。想い人の一大事だ、うかうかしていられない。
林の奥に流れる川を目指し、一心に走る。
木々の合間から、タオルを巻いた女性陣が心配そうになにかを見つめているのが伺えた。
「アメノっ!」
「きゃあっ!?」
飛び出したと同時に、あがった悲鳴はアメノそのひとのもの。
視界に飛び込んできたのは、タオルを纏っていない、白い白い、白磁のような――、
「っ――ご、ごめんっ」
慌てて背を向けるも、目に焼き付いた彼女の素肌。
あっというまに顔に血が上り、頭がパニックになった。
「な、な、なんでここにいるんですか……! まっ、まさか覗きを……!」
アメノの混乱した怒声が背中を刺す。
彼女と同調した女性陣の視線も痛かった。
「だって悲鳴がきこえたから……」
「転んだだけです! もうすぐ雨だから、慌てただけで――っ、もう! だから早く消えてください! あなたみたいにデリカシーのない人間知りません!」
言い訳も虚しく、追い立てるように魔法が飛んでくる。
当たらないように避け、災難だと喚きながら、内心思わぬラッキーだったとも思ってしまう。
だから、きっと神様の罰なんだろう。

愛馬にど突かれ、雨が止むまでテントに入れて貰えなかった。

2012.11.17
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68.ひこうき雲

遠く弧を描く機体をただ見上げていた。
一週間前、大切な記念日にいつもより豪勢なデートでも楽しもうと彼が言った。
記念日と言うのは彼と私は五年間恋人として付き合ってきた。そのはじめの日。
念入りに計画を立てて、いざ明日にデートを控えた夜。
携帯電話に一通のメールが入った。
「今日はすこし用事で遅くなるから、先に行ってまわっててくれ」
素っ気無いメールに、浮き立っていた心がしぼむ。
そもそも今日の行き先だって、彼が行きたいというから賛成したのだ。
とても私一人じゃ楽しめそうにない。
ガイドさんに聞いた説明も、詳しすぎてさっぱりだった。
だから、悠々と空を飛ぶジェット機を見上げて、ベンチに腰掛け待ちぼうけだ。
「ああ、退屈だなぁ」
無性に寂しくて、自動販売機で買ったジュースを飲む。
冷たいジュースは、私の心をまた冷やしていくようだった。
馬鹿らしくなって席を立つ。
いっそのこと入り口まで戻って待っていようか。どうせ見るものもないし。
そう思った時、背後からガイドさんが私を引き止めた。
「お待ち下さい、お連れ様がお呼びです」
「え、でもまだ来てないんじゃ……」
柔らかい営業スマイルを浮かべたガイドさんの声に私は困惑した。
言われるがままに案内されて、外に出る。
エンジン音が忙しなく鼓膜を叩いた。
辺りを見渡せど、彼の姿はない。
ガイドさんの指差した頭上を見上げると、そこには一機のジェット機が旋回していた。
ぼぅ、とその尾を白い軌跡が追う。
徐々に形づくられていくひこうき雲は、落ち込んでいた私の心を沸き立たせた。
もしかして、まさか、でも。という期待が膨らんでいく。
「Ma……Marry me……?」
全ての文字が綴られ、ひこうき雲が途切れる。
私は空に浮かんだ字を眺め、口を覆った。
零れ落ちそうな涙を我慢することが出来ない。
何を思うよりもまず、すぐ彼に会いたいと思った。

それで一番に言ってやるのだ。
「言われなくとも、」と。

2012.11.18
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69.流れる

ぽたり、ぽたりと流れていく。
規則正しく時を刻む機械音は、心臓の音そのものだ。
か弱い呼吸を繰り返す口唇から伸びる管。
何が何でも、何が何でもと、
残されるかもしれないものの抵抗は虚しく。
ぽたり、ぽたりと流れていく。
腕へ繋がった管を通る。
下肢と袋を結んだ管を通る。
こんなにも人間は流れていくのかと、頭の中で他人事のように思った。
体内を流れる全て、体外に流れる全て。
時間を流れて、八十の時を駆けるひとは、剰りにも呆気ない。
曖昧に霞んだ思考の中で、苦しみに喘ぐ周囲を、冷淡に見下ろす自分がいる。
「もう諦めてしまうのか、くだらない」
ただそれが、抗いなのか逃げなのかは分からない。
冷淡な目は、とくとくと流れていく時間を、惜しむように眺めていた。

2012.11.19
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70.ナミダ

黄色くつめたくなった肌。
ぽっかり開いた唇からは、使い古された歯が覗く。
薄い髪の毛は整えられて、ふさふさと空調に揺られていた。
瞼は閉じられ開かない。
ふ、と、地下特有の寒さが背筋を走った。
ヒデちゃんが手を合わせる。
私も手を合わせて、口元に指先をあてた。
じんわり目の奥が暖かくなって、閉じた瞼から涙が零れ落ちた。
最期を看れなくてごめんなさい。
ものごころつくまえから、私を見ててくれてありがとう。
またね、

2012.11.20
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